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大阪高等裁判所 昭和61年(う)205号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二〇万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人中尾英夫作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

論旨は、量刑不当を主張し、本件については罰金刑を選択されたい、というのである。

そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討するのに、本件は、警備保障会社の警備員兼自動車運転手である被告人が、普通貨物自動車を運転して原判示道路(大阪市東淀川区柴島三丁目一一番先路上)を時速約四五キロメートルの速度で進行中、前方注視義務を怠つた過失により、自車前方を左方から右方へ小走りに横断しようとした被害者菊池勝広(当時四五歳)を前方約一八・二メートルの地点に認め急制動の措置を講じたが間に合わず、同人に自車前部左を衝突させて同人を路上に転倒させ、その五日後に、右衝撃に起因する脳挫傷等により同人を死亡させたという事案であつて、右のような過失の態様及び結果の重大性に照らすと、被害者側の落度の点を考慮に容れても、原判決の量刑(禁錮六月、執行猶予二年)は、まことにやむをえないものと考えられないことはない。

しかしながら、所論は、本件につき被告人が執行猶予付きではあつても禁錮刑に処せられると、警備業法三条二号により警備員たる資格を失い、現在勤務している警備保障会社から解雇されることが必至であり、執行猶予期間中はもとより、右期間満了後五年間も復職できないという苛酷な結果になるところ、本件事故の態様、過失の程度、示談状況及び被告人の日頃の勤務態度などからすれば、本件につき、被告人の失職をもたらすような自由刑ではなく罰金刑を選択するのが相当であると主張するので、さらに検討するのに、証拠によれば、被告人は、昭和五四年二月以来、東洋警備保障株式会社の警備員兼自動車運転手としてまじめに勤務する三八歳の男性であるが、同社においては、警備業務以外の職種に被告人を配置転換する余裕はないので、被告人が執行猶予付きではあつても禁錮刑に処せられると、同社としては、警備業法三条二号、七条二項等の規定の存在を理由に、被告人を解雇せざるをえない状況にあることが認められる。

ところで、一般に、刑の量定は、当該犯罪事実の違法性の大小とこれに対する被告人の責任の程度を基本としながらも、被告人の性格、境遇、犯行後の情況等諸般の情状を総合してなされるべきものであつて、当該犯罪事実に対する被告人の刑責の程度等から通常予想される刑罰が、ある被告人に対し、右刑罰が本来予定している以上の著しい苦痛ないし社会生活上の不利益をもたらす結果となるなど特別の事情がある場合には、右の点を考慮して、刑罰の量及び質を若干減ずることは許されると解されるが(この点は、当該犯罪事実に関する被告人の刑責の大小とは何らの関係のない被告人の家庭の状況とか現在の健康状態などが、現実の量刑上無視しえない情状の一つと考えられている点からも、当然のことと思われる。)、かかる事実関係は、あくまで、具体的な量刑を決するうえでの一つの付随的な因子に過ぎないというべきであり、右の特殊事情を強調し過ぎて、他の犯罪者との間で逆に刑罰の公平を大きく失する結果を招来するがごときことは、もとより許されないところである。そして、右の考え方によれば、業務上過失致死傷罪につき禁錮以上の刑に処せられることにより被告人が必然的に職を失うという事情は、一般的には、刑種の選択上それほど重視すべきではないが、当該事故における被告人の過失の程度等から予想される量刑が、執行猶予付き禁錮刑と罰金刑との限界付近のものであると考えられる場合には、罰金刑の選択を相当とする一事情として考慮することが許されるということになろう。

そこで、以上の前提に立つて、まず、本件事故の態様と被告人の過失の程度を少しく具体的に検討してみるのに、本件事故は、被告人の前方注視義務違反という基本的な過失によつて惹起された歩行者の死亡事故ではあるが、事故の発生した場所は、一方がコンクリートの側壁、他方が河川の堤防の用壁で囲まれ、一分間の車両の交通量が一〇〇台近いという交通ひんぱんな片側二車線の道路(全幅員約一四メートル)上であるところ、右道路の車道部分の西側には、幅員約〇・七メートルの外側線で仕切られた部分はあるが、右部分を歩行者が通行するようなことはまず考えられず(右道路を仕事で何回となく利用している被告人も、歩行者を見掛けたことは一度もない。)、まして、車両と車両の間隙をぬつて道路を横断する歩行者がいるというようなことは、通常の自動車運転者の想像を超える事態であると考えられ、右道路は、自動車専用道路でこそないが、その現実の利用形態は、自動車専用道路のそれと異ならないものであつたということができる。しかして、このような道路上であつても、自動車運転者としては、常に万一の不測の事態に備え、前方左右の注視に万全を期すべきであることはもちろんであるけれども、それにしても、かかる道路状況のもとにおいては、歩行者の通行の安全は、主として歩行者自身の判断と行動によつてこれを守ることが期待されているといつてよく、車両の流れを意に介することなく突然車道上に出現する歩行者との衝突事故について、自動車運転者を強く責めるのは酷である。とくに、本件において、被告人は、道路中央線寄りの第二車線を時速約四五キロメートルという、制限速度(時速四〇キロメートル)に近い速度で進行していたものであり、被害者は、道路左側の外側線付近から被告人車の進路の方に向かつて斜めに小走りで横断してきたものと考えられるところ、被告人は、第一車線(幅員約三メートル)を約三分の二横断してなおも斜めに自車線路上へ出てくる被害者を約一八・二メートル前方に認めて直ちに急制動の措置を講じているのであつて、前記のとおり、かかる横断者の出現が被告人にとつて予想外の事態であつたことを考えると、被告人の前方注視義務違反の程度は、それほど重いものとはいえず、本件事故の主たる原因は、被害者の無謀な斜め小走り横断にあつたと認めざるをえない。もつとも、本件事故現場付近は、ほぼ直線で見通しがよく、現に、助手席に同乗中の浅場清は、事故現場の一〇〇メートル以上手前の地点で被害者を発見しているのであるから、事故の直前に至るまでこれに気付かなかつた被告人の過失は重大であるといえなくもないが、主として他の車両との危険回避に注意を集中していたとみられる運転者たる被告人と、そのような責任の全くない同乗者とでは、注意の力点の置き方にちがいの生ずることは、ある程度やむをえないことであるから(なお、前記のような本件事故現場付近の道路状況に加え、衝突地点の約一三〇メートル手前の地点で、左側から高速で被告人車を追い越していつた車両があることなどを考慮すると、被告人が、主として他の車両との危険回避の点に注意の力点を置いていたことを、強く責めることはできない。)、右の一事によつて被告人の過失を重大であると断ずるのは、やはり相当でないといわなければならない。

次に、本件については、被害者の遺族たる実兄との間で、総額二五〇〇万円による示談が成立している。本件の被害者は、以前暴力団に所属していたこともあり、元来稼働意欲に乏しく、とくに近年は、健康を害してまともに稼働していなかつたようであるから、賠償金の大部分が強制保険によるとはいえ、保険会社との交渉により、同社をして、当初の査定を大幅に上回る右金額の支払いに応じさせた被告人の上司らの努力は、それなりに評価すべきであるし、示談交渉等における誠意を認めた被害者の実兄からは、被告人の寛刑を嘆願する書面も提出されている。また、被告人自身も、事故後、当然のこととはいえ、直ちに事故を警察に通報し、病院での付添い等、被害拡大阻止のためのできる限りの努力をしている。

最後に、被告人には、昭和四四年二月と同四八年三月の二回、自動車人身事故による業務上過失傷害等により各罰金刑に処せられた前科があるが、他には前科が全くなく、とくに、前記警備保障会社に就職したのちにおいては、被告人は自動車の運転にも安全を心掛けていた様子が窺われ、日頃の勤務成績も良く、勤務先においても、できれば被告人を従前どおり雇用していきたい意向を有している。

以上詳細に説示した情状に照らして考察すると、本件における被告人の刑責は、もともと禁錮刑の選択を必然ならしめるほど重大なものではなく、罰金刑の選択を相当とする事案との限界付近に位置するものと認められるのであつて(このことは、起訴段階において、検察官がいつたんは略式起訴を考察した形跡があること、原審における検察官の求刑は、歩行者の死亡事故であるにもかかわらず、禁錮六月という比較的軽いものであり、弁護人が被告人の失職の点に思い至らず、この点を問題点として指摘していなかつた原審段階の量刑も、禁錮六月、二年間執行猶予の寛刑であつたことなどによつて、ある程度裏付けられよう。)、これらの事情に、すでに述べた禁錮刑の確定による被告人の失職の問題を併せ考えるときは、本件は、執行猶予付き禁錮刑の下限に近い刑を言渡すよりも、むしろ、罰金の最高刑を言渡すのが相当な事案と考えられ、結局、被告人を禁錮六月、執行猶予二年に処した原判決は、罰金刑を選択しなかつた点でその量刑重きに失し、破棄を免れない。論旨は、理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に則り、当審において、直ちに次のとおり自判する。

被告人の原判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中罰金刑を選択して、所定金額の範囲内で被告人を罰金二〇万円に処することとし、労役場留置の点につき刑法一八条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松井 薫 裁判官木谷 明 裁判官生田暉雄)

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